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松井須磨子(女優)
1886(明治一九).11.1−−1919(大正八年).1.5
勝気 unyielding
女優の草分け松井須磨子(本名・小林正子)
は、舞台と恋に命を賭けた。
明治から大正に時代は移って、新しい波が
到来する。平塚らいちょうが新しい女の誕生
を目指して雑誌『青踏』を創刊した。
須磨子は明治十九年長野県松代に、九人兄
姉の末っ子として生まれた。もとは士族で、
旧家だが、父が早く亡くなり、彼女は生まれ
てすぐに養女に出された。だが、その家も貧
しく、十六歳のときに、東京にいる姉を頼っ
て上京した。
十七歳のときに最初の結婚をするが、すぐ
に別れた。夫の遊び癖が原因である。「女は
耐える」という古いしきたりは須磨子には通
用しなかった。二十二歳で再婚した相手は、
中学教師の前沢誠助。東京俳優養成所でも教
えていた夫のすすめで、彼女は文芸協会に入
ることになった。
「暇つぶしの対象が見つかれば、少しは癇癪
持ちの妻の気が紛れるだろう」と夫は考えた
ようである。
当時の須磨子はふっくらとして愛嬌はある
が、人目を惹くほどの美人とは言えない。演
技も怒鳴るばかりで、「まるで運動会のよう
だ」と陰口を叩く者もあった。
その須磨子を開花させたのが、坪内逍遙の
助手をつとめ、留学から帰って演出家として
売り出し中の早大教授島村抱月である。
イプセン作『人形の家』のノラに大抜擢さ
れた須磨子は、島村演出をみごとにに表現し
た。これは世間知らずの女性ノラが自我に目
覚めていくまでの物語である。時代の後押し
もあって、当時二十五歳の須磨子は一躍脚光
を浴びた。
須磨子は文字どおり「新しい女性」のイメ
ージを象徴していた。彼女は寝食を忘れて、
愛する男のために芝居に没頭した。
芝居に注ぐ同じ情熱を須磨子は恋にも注い
だ。
「先生をどうして愛しちゃいけないの?」
島村に対する尊敬が愛に変わっていた。
島村は学究肌で、恋とはそれまで縁がなか
った。経済的な援助をしてもらった妻市子の
養子になり、五人の子どもをもうけていた。
大学では秀才で、冷静で思慮深い人物に見
えた。その男が初めて恋に燃えた。すでに四
十二歳に達していた島村は恋に生きる決意を
したのである。
それからしばらくして、須磨子と島村がい
るところを、妻の市子に見つけられた。
市子は須磨子に毒づいた。
話し合いが持たれたが、島村はまだこの時
点で、須磨子と関係があるとは認めていない。
翌日、須磨子は、島村の家を訪ねた。
「先生と奥様にお詫びにまいりました」
死のうと思い悩んだけれども、田舎に戻る
ことにしたと言うのだ。
「女優をやめて田舎に戻ろうと思います」
このときもあわてたのは島村である。
「きみがいなくなっては、文芸協会はダメに
なってしまう」
須磨子を宥めているように見えたが、むし
ろ狼狽しているのは、島村のほうである。
須磨子が帰ったあと、島村は便箋にして十
枚におよぶ長い手紙を書いた。
田舎に帰らないでほしいと訴えるだけの手
紙が書いているうちに延々と長くなってしま
った。手紙を島村は、書斎の奥の引き出しに
しまいこんだ。
この手紙も妻の市子に見つかってしまう。
めんめんと須磨子への愛を綴ったあとに、
「いまの女(妻)のことはなんとも思っちゃ
いない」と書いてあるくだりには、呪い激怒
したのだった。
田舎に帰るとは言ったが、須磨子は帰らな
かった。
「いろいろ考えましたが、先生がどうしても
残ってほしいとおっしゃるのなら、私は残り
ます」
須磨子は田舎に帰るつもりなどなかった。
女優をやめる気も、島村と別れる気もなかっ
た。島村の反応を確かめたかったのだ。
須磨子と島村の関係は、スキャンダルにな
り、社会的事件にまで発展した。
文芸座の主宰者であった坪内逍遙は、二人
に別れるようにと言明したが、聞き入れず。
ついに文芸座は崩壊、解散に追いこまれてし
まった。
そこで、二人は芸術座を旗揚げすることに
した。人気女優と大学教授とのスキャンダル
は世間の好奇の目を集めることになった。
須磨子は大ぴらに島村に甘えた。公演旅行
に出かけたりしても、平気で島村に命じる。
「疲れたわ、腰を揉んで」
同室のものは、たまったものではない。
ささいなこともいちいち島村に言いつけて
くる。
それをはいはいと言うことを聞いている島
村を目の当たりにして、座員たちはあ然とし
ていた。
「おちぶれたものだ」
トイレの紙がないと言っては、大声で呼び
つけられ、言うなりになっている島村を見て、
いくら惚れた相手とはいえここまでやるかと
呆れかえっている。
座員たちの不満は爆発寸前まできていた。
だが、芸術座の公演は成功していた。恋に生
きる女『サロメ』を須磨子は演じて大当たり
をとった。エゴイスティックで勝気で、わが
ままな須磨子には地に近い役柄だった。
ついで『復活』の稽古が始まったころ、沢
田正二郎らの幹部座員が脱退を宣言した。日
頃の須磨子の傍若無人な態度、それを御しき
れない島村への失望だった。島村を慕ってき
た座員たちにとって、我慢の限界を越えてい
た。
芸術座創設以来のほとんどの役者を失って
しまった。
「これでせいせいしたわ」
須磨子はそう言った。
濃やかな気持ちをもっている一方で、図太
い神経も併せもっている、彼女はそういう女
性だった。
カーチュシャ可愛いや 別れのつらさ
せめて淡雪 溶けぬまに・・・
この劇中歌「カチュ−シャの歌」は日本中
を風靡し、それにともなって、”カチュ−シ
ャどめ”が流行した。
『復活』は大好評で、須磨子と抱月は自分た
ちだけの劇場と住まいをもつことができた。
大正七年(一九一八年)は、スペイン風邪
が流行した。須磨子がまずその病いにかかっ
たのだが、翌日から島村も引き始めた。
「先生とおかめが並んで寝ている」
おかめとは須磨子のあだ名だが、そのおか
めが回復に向かったのに、島村は高熱が続い
た。心配しながらも彼女は稽古に向かった。
島村も稽古に立ち会った。
十一月四日、明日が初日、須磨子は遅くま
で稽古をしていた。すると使いのものが呼び
にきた。
「先生が危篤です」
浜町の明治座から須磨子が飛んで帰るとす
でに島村の顔には白い布がかぶせられていた
のだ。
「死ぬときは一緒だと言ったのに」
須磨子が泣き叫んだが答えはなかった。
それからの須磨子はもぬけの殻であった。
須磨子の傷心は痛ましいばかりで、楽屋に
いても「島村先生はなくなりはしません。ど
うしても生きています」と独り言を言ってい
た。
劇の主人公、イザベラ(ダヌンチオ作『緑
の朝』)同様に狂えるがごとき有り様だった
という。
彼女が自分自身の命を絶つのは、二カ月後の
年が明けた一月五日朝のことである。い死。
東京・新宿区弁天町・多聞院には、合葬で
きぬ二人のために、二人の名を刻んだ比翼塚
がある。
「きみは愛する者は全力をあげて愛し、憎む
もの全力を挙げて憎む人であった」
芸術座の中村吉蔵は弔辞を読んだ。
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