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ジョ−ジア・オキ−フ(画家) Georgia O’Keeffe
1887.11.15−−1986.3.6
情熱 passion
「自分の絵を見るのは、たいがい楽しいもの
ではありません。自分の絵について知りすぎ
ているので、つい酷評してしまうのです」
ジョ−ジア・オキ−フの描いたもの。
花−−新人画家オキ−フの名声は、花の絵
のよって築かれた。
骨−−ニュ−メキシコの砂漠で白く晒され
た動物の骨、骨盤や頭蓋骨。
ニュ−ヨ−クの風景。とくに夜景。
エッジのような冷たい摩天楼、天に向かっ
て投げられるライトなど。
「花をとってじっと見つめるとき、その一瞬
花が全世界になる」
修道院で教育を受けたオキ−フは自分の絵
の性的シンボルについて語られるのを好まず、
股間を連想させるという憶測はどれもでたら
めだと言い張った。
一八八七年十一月、父フランシス、母アイ
ダの二番目の子ども(七人兄妹)として、ウ
ィスコンシン州サンプレ−リ−の近郊の酪農
場の家に生まれた。
祖母を置き去りにした謎めいた伯爵(ハン
ガリ−人、放浪者)から名前をもらって、ジ
ョ−ジア・トットと名づけられた。
「男みたいな名前」は、のちになっても、気
に入らなず、心の負い目となった。
ジョ−ジアは子どものころ、絵の先生だっ
たシスタ−・アンジェリ−クから手ひどく叱
られたことを覚えている。ジョ−ジアは鉛筆
で子どもの手を描くように言われたが、先生
に褒められたいと思って、子どもの手を詳細
に描いた。
ところが、シスタ−から「小さすぎる」と
叱られた。納得できなかったジョ−ジアは、
そのときの悔しさをずっと忘れなかった。
寄宿舎生活をした多くの少女がそうである
ように、思春期の一時期をレスビアンの体験
をするというのは、珍しくない。ジョ−ジア
は他の女の子にキスをしただけでなく、「他
の女性とは服装も態度もちがっていた」と同
級生たちは言う。
父と兄から性的虐待を受けた可能性が高い
とオキ−フの晩年に付き添った精神分析医が
語っている。
一九〇六年の夏から秋にかけて、発疹チフ
スにかかった。シカゴのア−ト・インスティ
テュ−トに学んでいたが、一年間休学した。
病いが癒えたオキ−フは、ニュ−ヨ−クのア
−ト・ステュ−デント・リ−グに学ぶことに
なった。
当時ジョ−ジアは紙を縦半分にわけて、二
つの空欄を作り、片方に「イエス」もう一方
に「ノー」と書きこむ。「イエス」には、自
分のしたいこと、たとえばダンスに行くと書
く。「ノ−」にはダンスに行ったらできなく
なることーーアトリエで制作すると書きこん
でいた。
のちのインタビュ−で自分が画家として成
功できたのも、この厳しい自己管理の方法の
おかげだと答えている。
一九〇八年の夏の終わり、ウィリアムズバ
−グへ戻ったが、家族は苦境に喘いでいた。
前年からの恐慌のせいで、お金はすっかり底
をついていた。
学校をやめ、シカゴでフリ−のコマ−シャ
ル・ア−ティストとして広告用にレ−スや刺
繍の模様を描く仕事をした。
二年間、シカゴで静かな生活を送ったあと、
一九一〇年の秋には、ヴァ−ジニアに帰り、
はしかの治療をした。病気のせいで一時的に
眼が見えなくなってしまったのである。
オキ−フは一九一一年からチャタム・エピ
スコパル・インシティテュ−トで美術を教え
ることになった。十一月、二十四歳の誕生日
を目前にして新しい生活のスタ−トを切った。
一九一二年の夏、ヴァ−ジニア大学シャ−
ロッツヴィル校のサマ−スク−ルでは、ア−
サ−・ウェズレ−・ダウの弟子のアロン・ビ
メントの素描クラスに入る。
オキ−フは画家として一人前になるための
基礎は、この蒸し暑い南部の夏の何回かのク
ラスですべて身につけた。
一九一二年秋から一四年の春まで、テキサ
ス州アマリロの公立学校で美術を教えた経験
は、オキ−フを変えた。西部の土地で自分の
描きたいものを見つけたのである。
一九一四年、二十七歳でニュ−ヨ−クに戻
ってきたオキ−フは別人だった。そのころか
ら着始めた黒いロングドレスのせいで、大人
びて見えた。
一九一六年のある日の春、コロンビア大学
のカフェテリアで一人の画家が昼食を取って
いると、学友が「あなたはマンハッタンギャ
ラリ−で作品を展示中の”ヴァ−ジニア”・
オキ−フか」と訊ねた。
自分の許可もなくと仰天したオキ−フは、
ギャラリ−のオ−ナ−のところに怒鳴りこん
でいった。291ギャラリ−の私有者で、ア
メリカでもっとも尊敬されている写真家の一
人である五十二歳のアルフレッド・スティ−
グリッツに「私がジョ−ジア・オキ−フです
」と名乗りをあげ、「私の作品を壁からはず
してほしい」と抗議をした。
この二十八歳の画家は自分の才能に気づい
ていないのだと思った彼は「きみは自分のこ
とをわかっていない」と説得した。「もちろ
んわかっていますとも、馬鹿にしないでくだ
さい」とオキ−フははねのけた。
アメリカの芸術史上、もっとも名高い二人
の出会いはこうして始まった。
一九二四年十二月、オキ−フはスティ−グ
リッツと結婚をする。二十三歳年上の彼との
出会いによって、オキ−フは画家として大き
く成長をとげた。
女性器を思わせる花の絵、骨の絵、あるい
はスティ−グリッツが撮影したオキ−フのヌ
−ド写真など。
オキ−フは裸で絵を描き、スティ−グリッ
ツは、相変わらず彼女の写真を撮った。
妻子のいる彼との生活は、一九四六年に彼
が亡くなるまで続いたが、結婚してからも「
ミス・オキ−フ」でとおした。
一九四六年七月十三日、スティ−グリッツ
が亡くなった。享年八十二歳。オキ−フ五十
八歳。
『ニュ−ヨ−ク・タイムズ』紙の死亡記事
には、「ジョ−ジア・オキ−フの夫」と書か
れてあった。
オキ−フはニュ−メキシコの荒野で隠遁生
活を送った。
そのころ、日本の本屋でみかけたオキ−フ
の絵に感動して草間弥生(美術家)が、ニュ
−ヨ−クで画家をめざしたいという手紙を出
したことが縁で文通が始まった。
一九五七年、二十八歳でアメリカにわたっ
た草間は、絵が売れなくて日々と食事にもこ
と欠く状態が続いていた。
オキ−フは草間に、自分の画商を紹介して
くれ、助言と援助を与えた。
一九六〇年代になってオキ−フの存在が再
びクロ−ズアップされた。
自立とカリスマ的象徴として女性運動家た
ちがオキ−フを支持したのである。
のちに恋人になるファン・ハミルトンが初
めて、オキ−フと会ったのはゴ−スト・ラン
チの長老教会修養センタ−でアルバイトをし
ているときだ。彼は彫刻家で、生活費を稼ぐ
必要があった。
ハミルトンはジョ−ジアにとって必要な人
物だった。以来六十歳も年の離れた彼との生
活が始まる。
彼は高齢のオキ−フに仕えて、長時間働い
た。ハミルトンはオキ−フの眼となり、指と
なった。
一九八四年になると、オキ−フは急速に体
力が衰えて、まったく歩けなくなった。
八月、オキ−フは一九七九年に作成した『
遺書』に二度目の補足を付け加えて、署名し
た。財産の大半ををハミルトンに遺贈すると
いうものだ。美術品が高騰したこともあって
彼が受け取る遺産は八千万ドルにものぼった。
のちにオキ−フの遺族は、何年も前に決め
た美術館への遺贈をとりやめたのは、ハミル
トンに強要されて遺書を書き換えたのだと主
張した。
オキ−フはサンタフェの病院で、孤独のう
ちに息を引き取った。
「死んでいくときには、この美しい場所を二
度と見ることができないという悲しみの思い
しかないのだ」とオキ−フは語っていた。
ニュ−ヨ−クの美術館で開かれたオキ−フ
の初期の作品展を見たアンディ・ウォ−ホ−
ル(ア−ティスト)は日記にこう書いた。
「花とか裂け目とか、いろんな絵があるが、
とどのつまり彼女が描いているのは、すべて
ヴァギナだ」
「人はわたしのことをこの世のものならぬ不
思議な存在にしてしまう」と、オキ−フはあ
る友人にあてて、皮肉な誇張をこめて書いた。
「宙をただよい−−霞を食って生きているか
のように−−でも、ほんとうのところ、わた
しの好物はビ−フステ−キなんだけど−−し
かも、血の滴るような」(『オキ−フ』野中
邦子訳)
一九八六年に九十八歳で亡くなってから今
日まで、オキ−フの人気はいまも変わらない。
サンタフェにあるジョ−ジア・オキ−フ美術
館には、開館以来、おおぜいの見学者が訪れ
ている。
オキ−フの激しく、情熱的な生き方は、ニ
ュ−メキシコの激しい自然のなかで大きな輝
きを見せたのである。
「私がどこで生まれたか、どこでどんな生活
を送っていた、そんなことは重要ではありま
せん。私がこれまでいた場所をどう扱ってき
たか、そのことに関心をもつべきです」
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