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ヒラリ−・ロダム・クリントン Hillary Rodham Clinton
1947.10.26−−

時限爆弾 time bomb

「家にいて、クッキーを焼いたりお茶を入れたりする人生を選ぶこともできた でしょう」
 だが、ヒラリ−・クリントンはその人生を選ばなかった。
 ヒラリー・ヴィクトリアは、一九四七年、シカゴに生まれた。父のヒューは、 海軍で、新兵訓練所の教官をしていた。母のドロシーは家を守り、ともに教育 熱心だった。
 ヒラリーは小さいときから、何ごとも積極性に富んでいた。スポーツ競技会 を組織したこともあるし、子どもサーカスを実現させたりもした。ヒラリーは 宇宙飛行士になる夢を諦めてからは、新しい目標をもった。それは学者だった。 彼女はもともと金髪だったが、このころには濃い褐色になってきた。
 成績もよく、自分の考えをはっきりと言うことができた。それがもっとはっ きりとしてくるのは、ウェズリー大学に入ってからである。
 保守的だったヒラリ−が、ボストン郊外にあるこのリヴェラルな校風によっ て、数カ月で変わっていった。ヒラリーはキャンパスで有名で人気があった。 身につけるものや身のこなしや着こなしにはかまわず、くしゃくしゃの髪に分 厚いびん底メガネをかけていても、人びとを惹きつけた。
 一九六九年、ヒラリーは卒業生代表に選ばれた。彼女は時代の空気を感じと って、批判的な内容を折りこんだスピーチをした。話題になり、『ライフ』誌 が取りあげた。
 ヒラリーは卒業後の進路を考えたが、学者になることを望んでいた彼女は、 イェール大学の法律大学院に進むことにした。
 ヒラリーとビル・クリントンの出会いはイェール法律大学院に来て二年目の こと。図書館だった。付き合い始めたころ、クリントンは友人のボブ・ライシ ュに「ちょっと怖い」と言っている。
「彼女の虜になりそうで、怖かった。彼女はスターでしたから」とクリントン は『ピープル』誌で語っている。
 一九七二年のクリスマスに、ヒラリーはクリントンをシカゴの実家に連れて 行き、家族に紹介した。クリントンの人を逸らさない態度は好感をもって迎え られた。
 ヒラリーはクリントンに対する家族の反応が良かったこともあって、ますま す彼を好きになった。
 一九七三年、今度はクリントンが自分の故郷を見せるために、ヒラリーをア ーカンソーに誘った。アーカンソーについての知識がなく、「まだ素足で歩い ているような町」と思っていたようだ。生まれて初めて、見たアーカンソ−は 「本当にきれいだった」とヒラリ−は感じた。
 その年、二人はイェ−ル法律大学院を卒業した。クリントンはアーカンソー に帰っていったが、ヒラリーはすぐについて行く気にはなれなかった。彼女は まだ、将来のことについて決めかねていた。
 卒業後、ヒラリーはワシントンのマリアン・エデルマンの児童防衛基金に 就職した。
クリントンは教授として法律大学院で教えながら、政治家をめざした。  ヒラリーは、このワシントンでの職を捨てて、アーカンソーの法律大学院で 教えることになった。
 クリントンはアーカンソーから連邦下院議員選挙に立候補していた。 「きみの気に入っているあの家を買ったから結婚しよう。ぼくひとりでは住め ないから」
 これがクリントンのプロポーズの言葉だった。
 二人が結婚したのは、一九七五年十月十一日で、披露会場はクリントンが買 ったカリフォルニア通りのレンガの家だった。結婚してもヒラリーはミズ・ヒ ラリー・ロダムと名乗っていた。
 ヒラリーが結婚したことに対して失望した友人もいる。クリントンが選挙に 勝つには、ヒラリーの援助が必要だが、彼女こそアメリカで最初の女性大統領 になれる人物だと思っていたからだ。政治家を目指す夫の犠牲になることを親 しい友人たちは憂えていた。
 一九七七年一月、クリントンは検事総長に就任した。ヒラリーはローズ法律 事務所に入って弁護士として活躍することになった。アーカンソーには、女性 の弁護士は極めて少なかったが、女性ということを抜きにしても、彼女は優秀 だった。法廷では絶対に引き下がらなかった。
 一九七八年、クリントンは知事選に立候補して、当選した。三十二歳、全米 最年少の知事になった。ヒラリーはアーカンソー州のファーストレディになっ た。
 ヒラリーは、結婚前の名前をそのまま使っていた。彼女にとっては結婚前の 姓をそのまま使うことは、女性解放運動の一環だったのである。
 女房に自分の名前を名乗らせないので、クリントンは南部の弱虫といわれ、 ヒラリーは高慢な「よそ者」と思われていた。アーカンソー知事夫人として、 ヒラリーは自分の地位は厳しいと思っていたが、自分のやり方を変えるつもり はなかった。彼女がお手本にしていたのは、女性問題や人権問題で活躍したエ レノア・ルーズヴェルト(一八八四−−一九六二。F・D・ル−ズベルト大統 領夫人)だった。
 一九七九年一月一〇日、クリントンはアーカンソー州知事に就任した。それ から二年後の二月二七日に、ヒラリーは女の子を産み、チェルシー・ヴィクト リアと名づけた。
 一九八〇年、カーターが敗れ、ロナルド・レーガンが大統領に就任すると、 アーカンソーでも同じことが起き、クリントンは共和党の対立候補に敗れて、 知事の座を明けわたすことになった。
 一九八二年一月、クリントンは知事選に再出馬を表明した。
 ヒラリーはこのときから、分厚いレンズのメガネをコンタクトレンズに変え、 茶色の髪をブロンドに染めて、しゃれたス−ツに着替えている。まるで別人の ようになった。
 ミズ・ヒラリー・ロダムも、ミセス・ヒラリー・クリントンと名前の呼び方 を変えたのだった。
 そしてヒラリーは積極的に教育改革に取り組み、教育委員長の座についた。 これまでのトゲのあるヒラリーではなくて、やさしいイメージのヒラリーに変 身していた。
 ビルとヒラリーは、夫婦喧嘩をすることもよくあった。怒鳴りあっているの を目撃した側近もいる。
 一九八四年、クリントンは選挙に勝ち、三期目をつとめることになった。
 一九八八年の大統領の予備選で、クリントンはマサチューセッツ州知事のデ ュカキスの指名演説を行うことになった。そこで、クリントンは演説で大失態 を演じたのである。
「退屈なふいごだ」と『トゥナイト・ショ−』のジョニー・カーソンは皮肉っ た。クリントンは全国の笑い者になった。
 しかし、その危機を救ったのは、ハリウッド・コネクションであり、ヒラリ ーだったのである。クリントンはその笑い者にされたジョニー・カーソンの番 組に出て、サキソフォンまで吹いてしまった。
 一九九一年になると、クリントンが大統領選に出るのは確実とされた。
 ヒラリーは、一九八八年と九一年に、「全米でもっとも影響力のある弁護士 の一人」に選ばれている。
 一九九二年にクリントンは、大統領に選ばれ、九六年には再選された。
 その間、愛人問題など、スキャンダル続きの夫ビル・クリントンをヒラリー は支え続けてきた。だが、それも我慢の限界だろう。いつ、爆発するかもしれ ない。
 ヒラリ−は、いま上院議員。
 夫妻の役割が逆転する日はそう遠くない。

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