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レニ・リーフェンシュタール(映画監督・女優)
ヘレーナ・ベルタ・アマリエ・リーフェンシュタールは、一九〇二年八月二
十二日、裕福な実業家の娘としてベルリンに生まれた。
ダンサー(バレエとモダン)と画家を経て、二十代半ばでドイツ映画界の門
をたたき、アーノルド・フランクのマウンテン・フィルムスで、魅惑的で活発
なブロンド・スターとしてデビューした。映画のテクニックの基礎を現場で学
んだリーフェンシュタールは、一九三一年、処女作『ザ・ブルー・ライト』を
完成させる。
彼女はこの映画で、プロデュース、監督、編集を担当し、さらにベラ・バラ
ージュとともに脚本を手がけ、主役まで勤めている。配給も自ら起こしたプロ
ダクション会社レニ・リーフェンシュタール・スタジオフィルムを通じて行っ
た。
ナチスが台頭すると、ヒトラーに気に入られ、一九三四年のニュールンベル
グ党大会の撮影を任せられた。彼女はさまざまな鏡板やレンズを装着したカメ
ラ三十台と、百二〇人の助手を駆使してこの偉業をやり遂げた。それは目を見
張るようなドキュメンタリー『意志の勝利』として身を結んだ。
続いて彼女は、そのリズミカルな編集によって前作と同じくらい印象的な『
オリンピア』を完成させた。表はあくまで一九三六年に開かれたベルリン・オ
リンピックの記録映画だが、本質的には人間の肉体とその力こそが理想だとす
る映像賛歌である。四五台のカメラを、地面に埋め込んだり水中に沈めたり気
球で浮遊させるなどして配備し、大会をあらゆる可能なアングルから撮影した。
さらに、二百時間分ものフィルムから目もくらむような場面を丹念に選び抜
き、見事に編集して見せた。『オリンピア』は一九三八年のヴェニス映画祭で、
最も名誉あるムッソリーニ杯を獲得した。
翌年、フォトジャーナリストとしてドイツ軍のポーランド侵攻をカメラに収め、
一九四〇年には、オイゲン・ベールのオペラを音楽なしで映画化した『ティー
フラント』の撮影にとりかかる。ある場面で、彼女は強制収容所に入れられた
ジプシーを使っている。映画は一九四四年に完成するが、連合軍の勝利によっ
て公開は遅れることになる。
第二次大戦後、まずアメリカ軍に拘束され続いてフランス軍に拘束された。
ナチスの広報機関で積極的な役割を担ったとして、さまざまな刑務所や捕虜仮
収容所で四年近くを過すこととな三つの都市にあった家はいずれも扉を封印さ
れ、映画用の機材も没収された。
ヒトラーの愛人、あるいは熱心な崇拝者であることを強く否定したが、疑惑
はぬぐい去れず、却下された。
嫌疑のなかには一九三九年のドイツ軍によるポーランド市民大量虐殺に立ち
会ったというものまで含まれていたが、ともかく、活動を再開できることにな
った。
一九五四年にはようやく『ティーフラント』が公開されるが、キャリアを復
活させようとする彼女の、再度にわたる努力はいずれも失敗に終わっている。
中断されたプロジェクトのひとつ『シュヴァルツ・フラヒト(ブラック・カー
ゴ)』は奴隷売買を扱った映画だったが、彼女は自動車事故で重傷を負い、製
作を放棄してしまう。
六〇歳を過ぎてからスチール・フォトグラファーとして再びアフリカを訪れ
てからは、その能力を生かしてさまな雑誌や新聞に写真を発表し、本も何冊か
出して世界中にセンセーションを巻き起した(「ヌバ」や「珊瑚の底ど)一九
七四年にコロラドで開かれたテルュライド映画祭では、ホロコースト生存者か
らの抗議のブーイングにたえながら章を受け取った。一九九三年には物議を醸
す自伝『回想』を発表し、そのなかで彼女は自分がに無知だったことや、ナチ
の主義には共鳴しなかったことを訴えている。
百歳の現在も、新作「水中の印象」を発表するなど驚異的な活躍を続けてい
る。
「人生を否定的に生きるのなら、死んだほうがまし」
2003年9月9日死亡、101歳。
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