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ルシ−ル・ボ−ル(女優)Lucil Ball
1911.8.6−−1989.4.26
B級 B−class
ルシ−ル・ボ−ルが出演した『アイ・ラブ・ル−シ−』はテレビの草創期に
始まってアメカのテレビ史上最高の番組となった。
ルシ−ル・ボ−ルは、一九一一年にニュ−ヨ−ク州西部の工業地、ジェ−ム
ズタウンに生まれた。
ルシ−ル(ル−シ−)は幼年時代をモンタナ州、ミシガン州の郊外で送っ
たが、四歳のときに父が、亡くなった。これはル−シ−の心に大きな傷痕とな
って残った。どんな父だったか、どのように抱いてくれたか、一緒に遊んでく
れたかという思い出が彼女にはまったくない。
父が亡くなってから、祖母が大きな役割を果たすようになった。よくあるよ
うに大きな問題も生じた。後年の彼女には「気むずかしいおばあさん」という
冴えない記憶しかない。
母が働いていて、不在がちだったことから、ル−シ−は誰かの歓心を買うた
めに、演技をするようになった。心の捌け口を自然と芝居に向けたのだ。世間
の注目を浴びたい、芝居をやりたいという強い思いが母の怒りを買うことと
なった。
子どものときは彼女の大胆さ、強情な性格が目立っていた。十代になり、
異性に関心が向きはじめると世間は違った見方をするようになった。十四歳の
彼女は手に負えない娘だった。
髪を短く切り、地元の年上の不良と付き合い始めた。彼はその地域一番
のワルで、ル−シ−はいつも彼にくっついていたので、たちまちジェ−ムズタ
ウン一のワルの娘として有名になった。
それでもまだ、彼女には芝居を学びたいという強い思いがあった。一九三〇
年、地方の舞台に出た。
ル−シ−の祖母も亡くなった。高校を終えると彼女はニュ−ヨ−クに出た。
最初の二、三年はショ−ル−ムのファッション・モデルのような仕事をした。
経済的にはとても苦しかった。もっとも、ディナ−をおごってくれる相手には
不自由しなかったが。
彼女には厳しい時代だった。仕方なくトップレスやヌ−ドになってお金を稼
がなければならない状態まで追い詰められていた。芝居のオ−ディションも数
多く受けた。
ファッションモデルの仕事は、それなりに成功して本来望んでいた女優への
足掛かりとなった。
一九三三年七月、ハリウッド映画『ロ−マ太平記』のオ−ディションを受け
た。オ−ディションに失敗したが、脱落者が出たので、その代役がまわってき
た。彼女はハリウッドに行き、小さな役をもらった。
ル−シ−は認められようと必死だった。歯に自信がなかったので、写真撮影
ではいつも口を閉じていた。水着にトイレットペ−パ−や靴下を詰めこんで、
胸を豊かに見せようともした。
撮影の間に、エディ・カンタ−やジョ−ジ・ラフトら大勢の有名人と親しく
なった。そのコネで、ブロ−ドウェイの『TVパトロ−ル』『ブラッド・マネ
−』での端役をダリル・ザナックからもらった。ゴ−ルドウィンの『ナナ』で
のコ−ラスガ−ルなどいろいろな役を経験した。
やがて、頼りになる女優として、ザナックの信頼も厚くなった。スタ−やス
タッフたちとの交友関係も実を結んだ。
ル−シ−は何よりもまず、家族、とくに母をカリフォルニアに呼ぼうと決め
た。サンセット通りの北に寝室が三つある家を借りることができた。
一九三四年から三八年にかけて、ル−シ−はジンジャ−・ロジャ−ス、アン
・サザ−ンやデビュ−間近のスタ−たちと親しくなった。
ル−シ−は相変わらず多くの映画に出演していたが、B級映画の域を出ず、ス
タ−になることはできず、一九三八年には「B級女王」と呼ばれていた。
ルシ−ルと七つ年下のキュ−バ人の歌手デジ・ア−ネズと『トゥ・メニ−・
ガ−ルズ』の撮影中に知り合い、すぐに激しい恋に落ちた。デシは女癖が悪く
、二人は別れたり、よりを戻したりしながら、一九四〇年十一月三十日に結婚
した。
新婚時代の二人はとても幸せだった。が、映画の話がこなくなり、デジ
は落ちこんでいった。彼はついに金のためにバンドの巡業をする決心をした。
一九四二年八月、ル−シ−はRKOをやめMGMに移った。仕事は成功した
が、望んでいた「スタ−」にはなれなかった。それでも、一週間に四千ドルを
稼いだ。
一九四四年、女癖の悪いデジに嫌気がさして、ル−シ−は離婚訴訟を起こし
た。彼は審問の前夜、電話をかけて彼女を食事に誘った。
二人は結局、その晩一緒に過ごした。
翌朝、ル−シ−は裁判所の審問に間に合わないのではないかとあわてて出か
けた。用をすませて戻ってくると午後、そしてその夜もまた愛し合った。次の
日、彼らは離婚を取り消した。カリフォルニアの法律では、一年の猶予期間に
セックスすると、離婚は無効になるのだ。ル−シ−とデジはそれから十七年間
結婚生活を続けた。
TVショ−番組『アイ・ラブ・ル−シ−』は、一九五一年にスタ−トした。
ル−シ−は四十歳になろうとしていた。
一九五一年十一月五日には、千四百万人、アメリカ人の九人に一人がチャン
ネルを合わせ、十二月三日には、その数は千六百万人に達した。『アイ・ラブ
・ル−シ−』を観に、ロバ−ト・テイラ−、マリリン・モンロ−、ジョ−・デ
ィマジオといった有名人ファンもスタジオにやってきた。
ル−シ−にとって、一九五三年は、ジェット・コ−スタ−のような一年だっ
た。妊娠し、ショ−は歴史的なヒットを飛ばし、ル−シ−とデジの二人にはテ
レビ、映画の契約の話が飛びこんできた。彼らはアメリカ資本主義でもっとも
成功を収めた手本のように見られた。
ル−シ−は共産党員だという告発を受けていたが、彼女を救ったのはテレビ
の強力な人気だった。ゴシップライタ−のヘッダ・ホッパ−の業界誌での激し
い攻撃にも負けず、非難を払いのけ、どうにか無実を装ったのだった。
生活も仕事も順調だった。二人の子どもに恵まれ、ショ−もうまくいってい
た。二人にとっての大きな成功はパンドロ・バ−マンの『ロング・ロング・ト
レ−ラ−』だった。名声が仇となった。いさかいが絶え間なく続いた。彼女へ
の当てつけに、デジは娼婦や女優の卵を相手に遊び続けた。
一九五九年九月、デジは泥酔して留置所に入れられた。彼は毎日、酒浸りの
状態になっていた。仕事にも影響を与えるようになり、
一九六〇年三月三日、離婚した。
離婚の痛手に苦しんでいたル−シ−は一九六一年十一月十九日、ゲイリ−・
モ−トンとの再婚で立ち直った。
一九六二年には、デジ・プロダクションの株券を買った。一流映画スタジオ
の女性オ−ナ−となったのは、あとにも先にもル−シ−だけである。
一九六三年には、『ザ・ル−シ−・ショ−』がスタ−トしたが、『アイ・ラ
ブ・ル−シ−』には、およばなかった。
ショ−が最終回を迎えるころになると、ル−シ−はさらに憂鬱になり、怒り
やすくなった。あまりにも、ル−シ−の態度が尊大なために航空会社から締め
出されたのである。
あれほど有名ですばらしい女性にしては、最後の十五年間は悲しく淋しいも
のだった。
最後の望みをかけて『ライフ・ウィズ・ル−シ−』でカムバックをしようとし
たが、失敗した。
一九八九年三月のオスカ−授賞式に、ボブ・ホ−プにエスコ−トされてステ
−ジにあがった。スタンディング・オヴェイション(総立ち)で、ル−シ−は
迎えられた。これが最後の華やかな舞台だった。
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