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ベティ・デイヴィス(女優)Bette Devis
1908.4.5−−1989.10.6
怪物 monster
「男は自分の意見を言うと男らしいっていわれる。女が自分の意見を言うと、
あばずれって言われるのよ」
のちにベティ・デイヴィスと名乗るルース・フェイバーは、一九〇八年メイ
ン州オーガスタで生まれた。子どものころは活発で手に負えないお転婆で、
「フレッド」と男の名前で呼ばれると喜んでいた。
ニュートン・ハイスクール、クッシング・アカデミー・ハイスクールで学び、
学生演劇に熱中しているうちに、女優を志すようになった。ステージ・ダンス
を習ったのち、母と憧れのニューヨークに出て、ジョン・マーレー・アンダー
スンの演劇スクールに通うことになった。ニューヨーク州ロチェスタ−で小さ
な劇団で演出するジョージ・キューカー(のちに映画監督として有名になる)
に紹介され、籍をおいたものの、彼女の夢はブロードウェイにあった。
劇作家ユージーン・オニールを生んだ巡業劇団プロヴィンスタウン・プレイ
ヤーズで、二八年に『ア−ス・ビトウィーン』の舞台に立ったが、この芝居と
ともに、彼女もニューヨークに進出した。さらに『ブロークン・ディシズ』や
『ソリッド・サウス』などに主演することになる。この間に映画への野心を
抱くようになり、サミュエル・ゴールドウィンのスクリーン・テストを受けた
が失敗し、ユニヴァーサルに移り、三一年に『悪い妹』でデビューする。二十
三歳のときである。
しかし、これは話題にはならなかったし、そのあと大した役にもつけなかっ
た。くさり気味だったところを、名優ジョ−ジ・ア−リスの友人が、彼の主演
する『神を演じる男』に推薦したところからツキがまわってきた。ワーナーと
契約して(以後四九年までワーナーの専属となる)喜劇、ミュ−ジカル、シリ
アスな役など幅広く活躍した。
一九三四年、RKOに貸し出されて、ジョン・クロムウエル監督の『痴人の
愛』で奔放なミルドレッドの役を演じて、ハリウッドきっての演技派女優とし
ての第一歩を踏み出すことになる。
『ライフ』誌は、「おそらくアメリカの女優によってスクリーンに記録された
最上の演技」と称賛している『青春の抗議』(三五年)でアカデミー受賞。
『化石の森』(三六年)『札付きの女』(三七年)を経て、『黒蘭の女』(三
八年)で二度目のオスカーに輝いた。
この同じころに製作されたのが、『風と共に去りぬ』である。これが映画化
されたとき最後まで難航したのが、ヒロインのスカーレットで、多くの女優が
テストを受けた。ベティ・デイヴィスもその一人だった。
『青春の抗議』でアカデミ−主演女優賞を受賞しているし、気性の激しいスカ
ーレット役はベティにまさにはまり役に思われた。ところが、イギリス出身の
無名のヴィヴィアン・リーに決まった。
その意地が『黒蘭の女』への異常な執念になった。この映画の内容が『風と
共に去りぬ』に似ていることでもわかる。まず、背景が南北戦争、ヒロインが
スカーレットにそっくりの気性の激しい南部女。監督はウィリアム・ワイラー
だ。
その後ベティはワイラー作品の『月光の女』『偽りの花園』に主演し、気の
強い女、悪女役をやらせたら、彼女の右に出るものはないと言われるまでにな
るのである。
一九三九年に『プライベ−ト・ライフ・オブ・エリザベス&エセックス』、
四〇年『凡てこの世も天国も』。四二年には、ベティの発案で、軍人のための
慰安施設、ハリウッド・キャンティーンがオープンされた。
一九四三年、『ラインの監視』『旧友』、四五年には『小麦は緑』などに立
て続けに出演した。
一九五〇年にはベティの魅力を最大限に発揮して『イヴの総て』でマーゴを
好演した。
役柄ではマリリン・モンロー扮する若い女性にその地位を奪われるというもの
だが、実生活でも似た経験があり迫力があった。そもそもジョン・マンキーウ
ィッツはマーゴ役をクローデット・コルベールと考えていたが、彼女は撮影中
に背中を痛めてしまい、辞退せざるをえなくなった。
「ミンクのコートをポンチョのように扱う女として演じるように」とベティに
監督は注文をつけた。
マーゴはタバコを取り出し、火を点ける。男など待っていない。自分で酒を
注ぐ。ベティが演じた台本には、このことは書かれていなかった。
十月十三日、グラウマン・チャイニーズ・シアターで上映され、ベティは賞
賛を浴びた。
三百十万ドルの収入となる興行成績だった。辛口の映画批評家、ヘッダ・ホッ
パーですら「一九五〇年代のハリウッドのもっともわくわくする最高の女優に
よってもたらされた」と評した。
一九五一年二月十二日、『イヴの総て』は最優秀映画賞、最優秀監督賞、最
優秀脚本賞を含む十四のオスカーにノミネ−トされた(『風と共に去りぬ』を
一つしのいだ)。ベティは八度目の最優秀賞にノミネートされたが、大方の予
想に反して受賞を逃した(『ボ−ン・イエスタデイ』のジュディ・ホリディが
受賞)。
ベティは、オスカーこそ逃がしたが、ニューヨーク映画批評家賞の女優賞を獲
得して高い評価を受けた。
一九五〇年代以降のベティは盛りを過ぎていた。いつしか仕事もこなくなっ
ていた。
「私に合う役をください」と広告を出したこともある。
彼女の凄まじさを見せつけたのは、六五年の怪奇映画『何がジェーンに起こ
ったか?』だ。グロテスクな狂女役で、ジョーン・クロフォードと共演した。
この映画でもアカデミー賞にノミネートされた。
ジョーン・クロフォードとの仲の悪さは有名だ。
「彼女が使った後の便座だけは、座りたくない」
その後も『ふるえて眠れ』『妖婆の家』と老女の醜悪さを逆手にとって怪奇
映画に出演した。
晩年には、『八月の鯨』(八七年)で、リリアン・ギッシュと共演した。残
り少ない人生をささやかに生きる人びとを静かに演じた心に染みる作品だ。
ヒステリックで毒舌家、厭味だが、じつは哀しい老婆をからだ全体で演じた。
ベティは瞑想するようにタバコをおいしそうにふかしながら語る。
「私がアルコール中毒だという人がいるけれども、そうじゃない。私はニコチ
ン中毒なのよ」
ドラッグやアルコールは仕事に影響をきたすとベティは考えていた。
「私は仕事に悪い影響を与えるものには、手を出さなかったの」
「夫たちは、『ミスター・デイヴィス』と呼ばれることに、我慢ができなかっ
たかもしれない。だから、私は結婚すべきじゃないかもしれないけれど、やっ
ぱりしたかった」
ベティは「ハリウッドのファースト・レディ」と呼ばれたことがある。
ベティの結婚歴は四度、最初はバンドリーダーのハ−モン・ネルソンで、一
九三二年から三八年までの六年間続いた。二度目は航空会社の重役、四〇年に
結婚したが、四三年に死別した。
三度目は飛行家のウィリアム・グランド・シェリーで、四五年から四九年まで
だった。
俳優のゲイリ−・メリルとは五五年から六六年まで続いた。二人の間に三
人の子をもうけた。ゲイリーは、ベティより七歳年下だが、一九九〇年三月、
ベティが亡くなってから、五カ月もしないうちに亡くなった。
「ベティには何か凄まじいものを感じる。いまにも飛び出てきて誰かまわず、
食らいつくす悪魔のような」(ジョン・ヒュ−ストン監督)
吸い付けられるような瞳と変化に富んだ語り口、そしてツンとすました芸風
によって、ベティは誰にも真似のできないペルソナを作りあげた。女性的な芯
の強さと男顔負けの攻撃性をこれほどスクリーンで発散させる女優はハリウッ
ドでも前代未聞だ。バーバラ・スタンウィック、ジェーン・フォンダ、フェイ
・ダナウェイといった独立心あふれる女優の先駆となった。
一九七七年には、女性として初めてアメリカン・フィルム・インスティチ
ュートの生涯功労賞を受けている(四一年には、アカデミー会長に選ばれたが、
会場について協会ともめてわずか二カ月で辞任した)。
「仲間うちでモンスターといわれるようになるまでは、スターじゃないわ」
ベティは、まぎれもなくスターである。
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