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イングリッド・バ−グマン(女優)
1915.8.29−−1982.8.29

衝動 impulse

「名声やお金を求めるために、私は成功を求めたのではありません。成功は才 能と情熱によるものです」
 一九一五年八月、スウェ−デンのストックホルムに生まれたイングリッド・ バ−グマンは二歳のとき母を失い、画家で写真家だった父ユスタス・バ−グマ ンを十二歳のときに亡くした。
 内気な性格を克服して、王立演劇学校に入り、一年後にスヴェンスクフィ ルムに招かれる。演劇学校時代に知り合った歯科医のペッタ−・リンドストロ −ムと二十一歳のときに結婚した。
 一九三四年『ムンクブロ−の伯爵』で映画デビュ−。六番目のスウェ−デン 映画である『間奏曲』がニュ−ヨ−クで上映され、大物映画プロデュ−サ−の デヴィッド・O・セルズニックの秘書のケイ・ブラウンの目に留まった。契約 は結んだもののセルズニックもバ−グマン自身もあまり乗り気ではなかった のである。
 しかし、夫の勧めもあって、バ−グマンはハリウッドをめざした。
 一九三九年五月六日、クイ−ンメリ−号でニュ−ヨ−クに到着した。それか らバ−グマン流の生き方をハリウッドでも貫いた。妥協せず、セルズニックと 衝突を起こした。ハリウッド流大宣伝にもバ−グマンは反対したのだ。
「私は自分のあるがままにやります。派手な宣伝をしても、たいていは六カ月 もしないうちに消えてしまっています。それよりも私自身を、演技を見てほし いのです」
 最初は反対していたセルズニックも、バ−グマンのやり方に押されて言った。
「いっさい手をくわえない、映画史上初めて自然のままの女優が誕生するんだ」
 バ−グマンはメ−キャップなしで、テストを受けた。彼女は少し興奮すると 顔が赤くなる。当時はまだ白黒フィルムで撮影されていたので、黒く映らない かと心配していた。
 バ−グマン自身、自伝『マイ・スト−リ−』で書いているが、「若いころの イングリッドはそれほど美しくもなく、いわゆる”イット”(性的魅力)をも った女優でもなかった」のである。お色気を売るスウェ−タ−・ガ−ルでもな ければむろん水着美人でもなかった。
 どのインタビュ−でも平凡な「隣りの娘」として紹介されていた。一九三〇 年代後半のハリウッドでは流行らなかった。
 だが、バ−グマンは『別離』でデビュ−すると、がぜん注目を浴びることに なった。
「奇妙なみずみずしさが感じられる」とマスコミは評した。そんな彼女をマス コミでは同じスウェ−デン出身のグレタ・ガルボの後継者と噂し始めた。これ に対しても、バ−グマンは、ごく自然にふるまった。意識したのはガルボのほ う。バ−グマンのハリウッドでのキャリアは始まったばかりだったが、ガルボ のほうは終わろうとしていたのだった。
 バ−グマンは『カサブランカ』(四二年)で成功を収め、『誰がために鐘が 鳴る』(四三年。)そして『ガス燈』(四四年)で、アカデミ−主演女優賞を 得て、スタ−の座を不動のものとした。
 バ−グマンとゲ−リ−・ク−パ−の仲は有名だった。
 ク−パ−がバ−グマンのことを「フレンチ−」と呼び、バ−グマンは「テキ サス」とク−パ−のことを呼んだ。
 バ−グマンは一九四六年から四八年まで、連続三年マネ−・メイキング・ス タ−・ベスト・テンに入っている。
 破壊に向かう女バ−グマンがケ−リ−・グラント扮する連邦捜査官の愛によ って救われるスパイ映画、ヒッチコックの『汚名』を最後にセルズニックのも とを離れてフリ−となった。
 フリ−となったバ−グマンは『凱旋門』(四八年)で娼婦を演じ、ブロ−ド ウェイで上演された『ジャンヌ・ダ−ク』に出演した。
 ヒッチコックとの最後の作品は一九四九年の『アンダ−・カプリコ−ン』で ある。
 目映いばかりの美貌で有名なバ−グマンだが、貞淑な役柄はもちろん、悪女 を演じても優れていたのだ。
 戦後、バ−グマンはイタリアン・リアリズムの代表的な監督、ロベルト・ロ ッセリ−ニの『無防備都市』『戦火のかなた』などハリウッドでは見られない 映画に感動した。
「もし英語のうまいスウェ−デン生まれの女優をご入用でしたら、いつでもご 一緒に映画を作る用意がございます」と手紙を書いた。彼女は彼の天才を信じ ていた。
 この一通の手紙が彼女の人生を大きく変えることになる。
 バ−グマンが離婚(五〇年)をして、ロベルトのもとに走ったことは多くの ファンを驚かせた。スクリ−ンのファ−ストレディで、けっしてスキャンダル を起こす女優とは思われていなかったからだ。
 このスキャンダルは公開中の『ジャンヌ・ダルク』の成功をも脅かしかねな かった。それどころか、夫ロベルトがストロンボリで撮影した映画もひどい不 評で、バ−グマンの女優人生をも危うくさせたのである。
 かといってバ−グマンが犯罪を犯したわけではなかった。彼女は自分の意志 にしたがって行動したにすぎない。彼女には最低限の私生活も許されないのだ ろうか?
 世間は不貞行為として彼女に非難を浴びせかけた。バ−グマンはアメリカ映 画界からボイコットされてしまったのである。
「あなたを騙すつもりはなかったのですが、あなたはもう私を必要としていな いでしょうし、私も自分の道を行きます」
 バ−グマンはそう手紙を書いた。
 ロベルトとバ−グマンの仲はスウェ−デンの国旗に泥を塗ったとまで言わ れた。
 バ−グマンは世界的なスキャンダルのため、出演作も不評続きで破産状態に 陥った。  いったんは引退を宣言したが、また彼女はカムバックをしなければな らなかったのである。
 ロベルトとの間に、三子をもうけている(のちに娘のイザベラは女優になり、 デヴィッド・リンチ監督の『ブル−・ヴェルヴェット』などに出演した)。
 アメリカ映画界から七年間にわたって締め出された。
 だが、フランスの映画監督ジャン・ルノワ−ルの『恋多き女』(五六年)が 転機となる。
 電文には「すべて許された。帰国されたし」とあった。
 そして『追想』(五六年)で再度アカデミ−主演女優賞を受けるのである。 これによってこれまでの情熱的なヒロインから、年輪を感じさせる大女優への 一歩を踏み出した。
 一九五八年には、ロベルトとの婚姻無効判決がおりる。同じ年に、演劇プロ デュ−サ−のラルス・シュミットと結婚した。
 シュミットとの結婚によって、六〇年代に入ると舞台出演が増えた。
「年をとることには驚きはしない。自分が七十歳になったときに演じられるよ うな素敵な役があるかどうかです」
 一九七四年の『オリエント急行殺人事件』ではアカデミ−助演女優賞。リヴ ・ウルマンとの共演、ピアニストと娘の激しい愛憎を描いたイングマ−ル・ベ ルイマン監督の『秋のソナタ』で賞賛を受けた。
 一九七〇年代に入ってバ−グマンは体調を崩していった。乳がんと闘いなが ら、イスラエルのゴルダ・メイヤ−女史の生涯を描いた『ゴルダと呼ばれた女 』(八〇年)に出演した。これが最後の作品となった。
 六十七歳の誕生日を祝ったその夜に亡くなった。
「スウェ−デンでの少女時代、私はこう神に祈ったものだった。『どうかつま らない人生になりませんように』。神は私の願いをかなえてくれた」(一九八 〇年のインタビュ−)
 墓碑銘には、「生の最後まで演技をした」と刻まれている。

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