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ダイアナ妃 Princess Diana
1961.7.1−−1997.8.31
激突 crash
「リーブ・ミー・アロン(そっとしといて)」
一九九七年八月三十一日未明、一台のメルセデス・ベンツがパリ、セーヌ河
沿いの高速トンネル内で、十三番目の支柱に激突した。運転手と後部座席に乗
っていた男は即死。助手席の男と後部座席に乗っていた女性は瀕死の重傷だ。
「オー・マイ・ゴッド(なんてことなの」
女性の上半身は車の外に飛びだしており、けいれんを起こし、手足に怪我を
していた。顔は無傷で、駆けつけた救急隊の医師がライトを当てると、つぶや
いた。
「リーブ・ミー・アロン」
医師たちは、酸素マスクを当て、大静脈にカテーテルを入れて、輸血を開始
した。
その間も、多数のカメラマン(パパラッチ)は、シャッタ−を切り続けてい
た。
三時間後、美しい女性は出血多量で、息を引き取った。元英国ダイアナ妃。
三十六歳。
葬儀で、歌手のエルトン・ジョンは「イギリスの薔薇」と讃えた。
「キャンドル・インザ・ウインド(風の中のロウソク)」。
元歌は、ジョンがマリリン・モンロー(同じ三十六歳で死去)の死を悼んで
作ったものを一部変えた。
<さよなら、英国のバラよ、わたしたちの心の中で永遠に育っておくれ>
ダイアナは、一九六一年七月一日、オールトラップ夫妻、のちのスペンサー
伯爵の三女として生まれた。セーラとジェーンという二人の姉がいるので、「
今度こそは男の子」と期待されていて、女の子の名前はあらかじめ考えられて
いなかったが、ダイアナ・フランシスと名づけられた。
イギリスの名門貴族スペンサー家は、十五世紀にヨーロッパでも有数の羊商
として財を築き、国王チャールズ一世から伯爵の地位を与えられた。頂点に昇
りつめる者は出なかったものの、ガーター勲爵子、枢密顧問官、外交官、海軍
大臣などを輩出し、第三代スペンサー伯爵は首相候補にあげられた。
ダイアナは姉たちと同様に、三歳で乗馬を覚え、動物好きの少女で、とくに
ハムスターやウサギなど小さな動物を可愛がった。両親とはあまり会う機会が
なかった。そのうえ、二人の姉は、階上の学習室で過ごす時間が多く、そのう
ち寄宿舎に入ってしまった。 両親は、人前ではにこやかだったが、結婚生活
にはすでにひびが入っていた。母が愛人を作って出て行ってしまってからは、
オールトラップ城はダイアナにとって、牢獄のようになった。次々と新しい乳
母が雇われてきたが、ダイアナや弟のチャールズは馴じめなかった。
一九七五年に、祖父のスペンサー伯爵が亡くなって、父が第八代のスペンサ
ー伯爵となった。ダイアナはレディの称号を得た。
まもなく父は再婚したが、ダイアナは義母を好きになれず、七六年に行われ
た結婚式にも出席しなかった。
十七歳になったダイアナは、ロンドンで知人が経営する幼稚園で園児に絵や
ゲームなどを教えるアルバイトをし、料理学校にかよっていた。このころのダ
イアナは、ごく普通の女の子だったが、真夜中にロンドンを車で走らせたり、
眠っている友だちのアパートを急襲したりしたこともある。
そのころからダイアナは王族と結婚したいと夢見ていた。長姉のチャールズ
皇太子との恋が破れてからは、次姉のジェ−ンに期待がかかったが、彼女は女
王の個人秘書をつとめるロバート・フェローズと結婚した。
一九七九年一月に、ダイアナはサンドリガム城で女王と同居している次姉夫
婦を初めて訪れたが、すっかり王家の生活の素晴らしさに魅せられてしまった。
だが、このときチャールズ皇太子は、ダイアナのことは眼中になかった。当
時チャールズはスコットランドの地主の娘であるアナ・ウォリスに夢中だった
から。アナは狩猟が得意でチャールズの恰好の相手だった。しかも彼女は相手
が誰であろうと、ずけずけと物を言うのだ。かえってそれが、チャールズにと
っては新鮮だった。
しかし、女王の誕生パーティで、客の応対に追われていて、自分を相手にし
てくれないチャールズをアンは見限り、すぐ他の男と婚約してしまった。それ
まで、地球は自分中心に動き、ほしいものはすべて手に入ると思いこんでいた
チャールズは初めて傷ついた。
ダイアナは積極的な行動に出た。チャールズを追っかけた。彼の視界に入る
ところにいさえすれば成功だ。バレエで鍛えたからだで、背筋をぴんと伸ばし
て歩く。ときには水泳で磨きをかけたプロポーションを披露した。
猛烈なダイアナのアタックに世論も味方した。一九八〇年九月で、チャール
ズは三十三歳になっていて、皇太子のお妃様さがしはマスコミの一大関心事っ
た。エリザベス女王も一日も早く身を固めてほしいと期待していた。
ダイアナはまだ十八歳だったが、恋の駆け引きについては成熟していた。マ
スコミをうまく利用した。皇太子とのロマンスが進行中のとき、八〇年九月八
日、『サン』紙が二人の仲をすっぱ抜いた。自分がフィアンセだと思わせるこ
とで、踏ん切りがつかない皇太子に追い打ちをかけた。マスコミはいかにダイ
アナが皇太子妃に相応しいかを書き立てた。
一九八一年二月二日、ウィンザー城で、皇太子はダイアナにプロポーズをし
た。二月二十四日には、チャールズ皇太子とダイアナの婚約が記者団に発表さ
れた。
そして七月二十九日、チャールズとダイアナの結婚式が行われた。その様子
はテレビ中継され、世界中の人びとが見た。
二人は幸福の絶頂にあった。ダイアナはいつも彼の膝の上に乗り、べったり
とからだをくっつけていた。
しかし、そんなハネムーンは長く続かなかった。
ダイアナは田舎暮らしが嫌いで、不平を言い始めた。
何ごとも自分のいいなりにならないと気がすまないダイアナは、チャールズ
の服装から何から何まで口を出した。それが妻の当然の権利であるかのように。
結婚直後からダイアナは重い過食症と拒食症に悩まされていた。
一九八六年にチャールズ皇太子は、昔の恋人だったカミラ・パーカー・ボー
ルズ夫人との仲を復活させた。ダイアナもイートン校出身でマーチャント・バ
ンクに勤務するハンサムなフィリップ・ダンと密会した。ジェームズ・ヒュー
イット大尉は、ダイアナの乗馬のコーチに選ばれたことから知り合った。ダイ
アナは悩みを打ち明けた。
このころ、ダイアナとチャールズの二人は完全な別居生活に入っていた。
平日、ダイアナはロンドンで、チャールズはハイグローブで過ごした。そし
て週末にはダイアナが子どもたちを父親に会わせるためにハイグローブを訪れ
るのである。
「このままでは終わらせない」
二人の離婚が成立したのは、九六年八月のことだった。
離婚後のダイアナは、チャリティや地雷撲滅キャンペーンなどで、ひんぱん
にマスコミに登場した。
ダイアナとエジプト人大富豪ドディ・アルファイドとの熱愛が発覚した。再
婚が話題になった。
「ダイアナはジャッキー・オナシスに成り下がった。金持ちなら誰でもいいの
か」
作家のジェフリー−・アーチャーはこき下ろした。
ダイアナは、その恋人とともに激突死した。
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