新ボストンに友情あり
2.心をゆさぶる画家・テノール歌手
ボストン・マラソンとともにボストンに春がやってくる。
今年も多くのランナーたちが、ボストンの町を駆けめぐる。1897年に始まった世界でもっとも古いこのマラソンには、市民ランナーが数多く参加することでも知られる。
その中に、今年も日本人の姿があった。麻生花児(あそう・かじ)さん(62歳)。
「にぎやかしに走っていらい、やみつきになった」
今年で31回目になる。
「いっしょに走りませんか?」
私も誘われたことがあるが、自信がなかったので、丁重に断った。とても彼のパワーについていけそうになかったからだ。太い眉、顎髭には白いものが、混じっているが、いっしょに走った誰よりも、息がはずんでいない。まだ余裕があった。
しかし、麻生さんが何者であるかを説明するとなると、ちょっと骨が折れる。
あるときは、世界の河を下ったことでも知られる。これまでにはボルガ、ナイル、ミシシッピ川など、世界各地の川下りをしてきたのである。
「自然の中にいると、いかに人間が小さなものかを感じるんです」
まさに、なんでもできる麻生さんだが、本職はボストン美術館付属美術大学教授で、洋画家である。作品は東京の首相官邸やニューヨーク近代美術館、ボストン美術館、チェコスロヴァキア美術館など世界の一流の美術館に保管されている。
さらに忙しい時間を割いて、Kaji Asoなる芸術スタジオを主宰している。もう25周年を迎え、その長年の功績に対して、ボストン名誉市民に選ばれている。1997年には、イギリスのある団体から「20世紀の2000人」に選ばれてもいる。
スタジオはちょうど小沢征爾氏率いるボストン交響楽団の裏手にある。ここでは水彩画、水墨画、書道、俳句の教室などがある。
大学でのクラスを終えた麻生さんがやってくるのは、夕方を過ぎてから。私は書道のクラスに参加した。作務衣姿の麻生さんは、まず、座禅を組んで瞑想する。
クラスには、たいてい10名以上が参加している。スタジオ開設以来、スタジオに参加している者もあれば、まだ習い始めたばかりの者までさまざま。
「飛び入り大歓迎なんです。誰でも受け入れます。その代わり、来なくても・・・」
生徒それぞれの自由意志にまかせるというのが、麻生さんのやり方だ。
「こういうところは、風通しがよくなくてはいけません」
私も小学校以来ひさしぶりにやったが、うまくいかない。アメリカ人が、芭蕉の句などを上手に書くのを傍らで見ていると恥ずかしい気持ちになってくる。
麻生さんは、右手でも左手でも器用に筆を運ぶ。目の前の生徒には、その生徒がそのまま見られるように、つまり逆に描くことができるのだ。「一」「山」「○」など初歩的な書道の線を描いていると、不思議に心が落ちついてくるのだ。
そんなころに、このスタジオでもっとも古いメンバーであるケイトさんがお茶を運んできてくれる。
書道のクラスが終わると、麻生さんは2階にあがって水彩画のクラスを教える。いや、ここでも教えるというのではない。それぞれのレベルはかなり異なっている。今日、クラスに入った者もいれば、プロとしても通用する者まで。
この日は、ディスカッションのクラスもあるので、それにも参加してみた。英語のディスカッションで、哲学や宇宙について論じるのだから、かなり程度は高いのだが、みな縦横に発言する。
深夜まで、宇宙についてなどを語ったあとも麻生さんの一日は終わらない。
「これからボストンの町を走るんです」 ときには、ボストン・コモンやパブリック・ガーデンをローラーブレードで走ることもある。フロッグ・ポンドをアイススケートで楽しんだりもする。 「一度、暴漢に襲われたことがあるが、反対にやっつけてしまった」
本場イタリアでのコンサートでは、アンコールが延々と続いた。
そして、もうひとつの顔になる声楽を始めたのは、芸大時代だ。声楽の延安正一氏から手ほどきを受けたが、本格的に始めたのは、1967年のボストンに渡ってから。
ノルマ・カンパネラ・リッグス女史に師事した。以後、ノルマ・カンパネラ・リッグス女史とボストン近郊で演奏会を開いている。年に4回、オペラ小劇場に主演したこともある。
1995年7月イタリアのパドヴァ市より聖アントニー生誕800年音楽祭に招待、ソロリサイタルで参加した。
「帰れソレント」「彼女に告げてよ」「アマリッリ」「トスカより・・・星は輝きぬ」など、ナポリ民謡やイタリア古典、オペラアリアまでをうたいあげた。
アンコール4曲の後も、拍手は鳴りやまなかった。
1984年からは、毎年日本でもリサイタルが開かれている。
今年の1月に、麻生さんのコンサートを聞きに行った。2年ぶりに会った麻生さんは、ほとんど変わらず若々しかった。いや、以前よりも若くなっている。感激のあまり、涙を流す観客が何人もいた。私も心をゆさぶられた。
「まだ声が良くなっているんです。CDを作るのは、もう少し待とうと思っています。完全にテナーの声が出来てきました。いまならパヴァロッティやドミンゴと並んでも負けません。少なくても声では私のほうが良く出ていると思います」
おそるべき自信だが、麻生さんのたゆまぬ努力がそうさせるのだろう。
麻生さんは、茨城県取手市の出身。東京芸大学油絵科で学び、ボクシングもやった。
「一つところにとどまらないんです]
ゴムボートで利根川を下ったこともある。この頃の麻生さんの写真を見ると、とても痩せていて神経質そうにも見える。
「体制に流されるというのが、嫌いなのはいまも昔も変わらない」
麻生さんが、ボストンにやってきたのは、もう32年前の1967年、31歳のときのことだ。
その2年前にインドネシアで、学生たちの革命に遭遇したこともきっかけの一つだが、何よりも「ぬるま湯のような日本を出る」ことが一番の目的だった。
麻生さんの描く作品は、前衛ともちがう。もっと、宇宙的な広がりを持っている。花や蝶など自然に材をとったものも少なくない。
「生きていることの実感を味わうには、いまこの一瞬を大切にすることが大切です」
麻生さんは、けっして時流に流されることはない。
「ずっと、私は変わらない。現代は混迷していると言われるが、私はけっして混迷はしていない」
麻生さんの作品は、いつも「自然に目」を向けている。驚くべき速さで、作品を描きあげていく。百号の作品を10日で描いたこともある。カンバスに向かう前に、もう作品は大方出来上がっているのだ。
ボストンにいるからこそ、本当の姿が見えてくる。
「いまの日本は、一部の金の亡者に操られています。嘆かわしい状態が続いています」
麻生さんのスタジオには、茶室もある。そこでいただく一服のお茶は絶品だ。
「これからも私は変わらない。自分の可能性にチャレンジしていきたい」
2000年はサバティカル(安息、有給休暇)で時間の余裕がある。レコーディングや大河下りの予定もある。
麻生さんは、エネルギッシュに今日も瞬間瞬間を生き続けている。
私は麻生さんからエネルギーをもらった気がした。がんばるぞという気持ちになれたことを感謝したい。
今年も多くのランナーたちが、ボストンの町を駆けめぐる。1897年に始まった世界でもっとも古いこのマラソンには、市民ランナーが数多く参加することでも知られる。
その中に、今年も日本人の姿があった。麻生花児(あそう・かじ)さん(62歳)。
「にぎやかしに走っていらい、やみつきになった」
今年で31回目になる。
「いっしょに走りませんか?」
私も誘われたことがあるが、自信がなかったので、丁重に断った。とても彼のパワーについていけそうになかったからだ。太い眉、顎髭には白いものが、混じっているが、いっしょに走った誰よりも、息がはずんでいない。まだ余裕があった。
しかし、麻生さんが何者であるかを説明するとなると、ちょっと骨が折れる。
あるときは、世界の河を下ったことでも知られる。これまでにはボルガ、ナイル、ミシシッピ川など、世界各地の川下りをしてきたのである。
「自然の中にいると、いかに人間が小さなものかを感じるんです」
まさに、なんでもできる麻生さんだが、本職はボストン美術館付属美術大学教授で、洋画家である。作品は東京の首相官邸やニューヨーク近代美術館、ボストン美術館、チェコスロヴァキア美術館など世界の一流の美術館に保管されている。
さらに忙しい時間を割いて、Kaji Asoなる芸術スタジオを主宰している。もう25周年を迎え、その長年の功績に対して、ボストン名誉市民に選ばれている。1997年には、イギリスのある団体から「20世紀の2000人」に選ばれてもいる。
スタジオはちょうど小沢征爾氏率いるボストン交響楽団の裏手にある。ここでは水彩画、水墨画、書道、俳句の教室などがある。
大学でのクラスを終えた麻生さんがやってくるのは、夕方を過ぎてから。私は書道のクラスに参加した。作務衣姿の麻生さんは、まず、座禅を組んで瞑想する。
クラスには、たいてい10名以上が参加している。スタジオ開設以来、スタジオに参加している者もあれば、まだ習い始めたばかりの者までさまざま。
「飛び入り大歓迎なんです。誰でも受け入れます。その代わり、来なくても・・・」
生徒それぞれの自由意志にまかせるというのが、麻生さんのやり方だ。
「こういうところは、風通しがよくなくてはいけません」
私も小学校以来ひさしぶりにやったが、うまくいかない。アメリカ人が、芭蕉の句などを上手に書くのを傍らで見ていると恥ずかしい気持ちになってくる。
麻生さんは、右手でも左手でも器用に筆を運ぶ。目の前の生徒には、その生徒がそのまま見られるように、つまり逆に描くことができるのだ。「一」「山」「○」など初歩的な書道の線を描いていると、不思議に心が落ちついてくるのだ。
そんなころに、このスタジオでもっとも古いメンバーであるケイトさんがお茶を運んできてくれる。
書道のクラスが終わると、麻生さんは2階にあがって水彩画のクラスを教える。いや、ここでも教えるというのではない。それぞれのレベルはかなり異なっている。今日、クラスに入った者もいれば、プロとしても通用する者まで。
この日は、ディスカッションのクラスもあるので、それにも参加してみた。英語のディスカッションで、哲学や宇宙について論じるのだから、かなり程度は高いのだが、みな縦横に発言する。
深夜まで、宇宙についてなどを語ったあとも麻生さんの一日は終わらない。
「これからボストンの町を走るんです」 ときには、ボストン・コモンやパブリック・ガーデンをローラーブレードで走ることもある。フロッグ・ポンドをアイススケートで楽しんだりもする。 「一度、暴漢に襲われたことがあるが、反対にやっつけてしまった」
本場イタリアでのコンサートでは、アンコールが延々と続いた。
そして、もうひとつの顔になる声楽を始めたのは、芸大時代だ。声楽の延安正一氏から手ほどきを受けたが、本格的に始めたのは、1967年のボストンに渡ってから。
ノルマ・カンパネラ・リッグス女史に師事した。以後、ノルマ・カンパネラ・リッグス女史とボストン近郊で演奏会を開いている。年に4回、オペラ小劇場に主演したこともある。
1995年7月イタリアのパドヴァ市より聖アントニー生誕800年音楽祭に招待、ソロリサイタルで参加した。
「帰れソレント」「彼女に告げてよ」「アマリッリ」「トスカより・・・星は輝きぬ」など、ナポリ民謡やイタリア古典、オペラアリアまでをうたいあげた。
アンコール4曲の後も、拍手は鳴りやまなかった。
1984年からは、毎年日本でもリサイタルが開かれている。
今年の1月に、麻生さんのコンサートを聞きに行った。2年ぶりに会った麻生さんは、ほとんど変わらず若々しかった。いや、以前よりも若くなっている。感激のあまり、涙を流す観客が何人もいた。私も心をゆさぶられた。
「まだ声が良くなっているんです。CDを作るのは、もう少し待とうと思っています。完全にテナーの声が出来てきました。いまならパヴァロッティやドミンゴと並んでも負けません。少なくても声では私のほうが良く出ていると思います」
おそるべき自信だが、麻生さんのたゆまぬ努力がそうさせるのだろう。
麻生さんは、茨城県取手市の出身。東京芸大学油絵科で学び、ボクシングもやった。
「一つところにとどまらないんです]
ゴムボートで利根川を下ったこともある。この頃の麻生さんの写真を見ると、とても痩せていて神経質そうにも見える。
「体制に流されるというのが、嫌いなのはいまも昔も変わらない」
麻生さんが、ボストンにやってきたのは、もう32年前の1967年、31歳のときのことだ。
その2年前にインドネシアで、学生たちの革命に遭遇したこともきっかけの一つだが、何よりも「ぬるま湯のような日本を出る」ことが一番の目的だった。
麻生さんの描く作品は、前衛ともちがう。もっと、宇宙的な広がりを持っている。花や蝶など自然に材をとったものも少なくない。
「生きていることの実感を味わうには、いまこの一瞬を大切にすることが大切です」
麻生さんは、けっして時流に流されることはない。
「ずっと、私は変わらない。現代は混迷していると言われるが、私はけっして混迷はしていない」
麻生さんの作品は、いつも「自然に目」を向けている。驚くべき速さで、作品を描きあげていく。百号の作品を10日で描いたこともある。カンバスに向かう前に、もう作品は大方出来上がっているのだ。
ボストンにいるからこそ、本当の姿が見えてくる。
「いまの日本は、一部の金の亡者に操られています。嘆かわしい状態が続いています」
麻生さんのスタジオには、茶室もある。そこでいただく一服のお茶は絶品だ。
「これからも私は変わらない。自分の可能性にチャレンジしていきたい」
2000年はサバティカル(安息、有給休暇)で時間の余裕がある。レコーディングや大河下りの予定もある。
麻生さんは、エネルギッシュに今日も瞬間瞬間を生き続けている。
私は麻生さんからエネルギーをもらった気がした。がんばるぞという気持ちになれたことを感謝したい。
















