新ボストンに友情あり
5.彫刻家で、ボストンと日本の民間大使

ボストンで、イクコ・バーンズさんの名前を知らなければ他国者である。
「もう、ボストンに住んで38年になります。知らないうちにずいぶんと経ったわ」
と言って微笑を浮かべた。
彫刻家として有名であるばかりでなく、彼女の存在そのものがスタイルをもっている。
この38年の間、イクコさんはボストンの大きな流れを見続けてきた。
「ボストンは、とても保守的な場所です。伝統を重んじますから。でも一面では、新しいものや変化をも好むのです。ファッションでも、トラディショナルと革新的の両面があります」
バックベイと呼ばれる地域のニューベリー通りは、イクコさんのお気に入りの場所でもある。暇があるときは、ウィンドウショッピングを楽しむ。
コモンウェル通りとボイルストン通りに挟まれたニューベリー通りは、日本でいえば東京・原宿のようなファッショナブル・ストリートだが、さすがに歴史の町は風格がちがう。19世紀のフランスの面影を残したレンガの建物が連なっている。
「もっともボストンらしい雰囲気のある通りですね」
ウィンドウショッピングに疲れたら、カフェで一休み。ボストニアンは、道行く人を眺めながら、ゆったりとした時間を過ごす。
現在、ボストンは猛烈な勢いで変化をとげつつある。
ウォーターフロントなど、ボストンのセントラル・アーティリー(心臓部)に当たる部分の改革を10年計画で行っている。
チャールズ川をわたったチャールズタウンは、歴史的な場所だが、すっかり廃墟と化していた。それを再開発した。
ボストンで初めて地上に作った公園だ。そこに、イクコさんの作品が設置されている。ボストンの町の発展に尽くした人物をモチーフにしたブロンズの彫刻群は、訪れる人々の目を楽しませている。
彼女の制作したこれらの作品は新生ボストンの21世紀にも輝き続けることになる。
「ブロンズは、冷たい感じがしますが、じつは暖かいんです」
バーンズ・イクコ作品には、どこかユーモラスで暖かみがある。人柄が作品に出ているのだろうか。 「制作していく過程は、とっても男っぽいんです。ブロンズ彫刻は、私にとって男になれる瞬間なんです。私はほんとうは男になりたかったんですから(笑)」
イクコさんの制作現場を見にきた友人の広中平祐氏(数学者)が、「これは町工場だな」と形容したことがあった。
「ジーンズをはいて、頭にはスカーフをまいて、服装なんてかまっちゃいられません」
その様子を見た友人が、パフォーマンスと思ったらしい。だが、そうではない。
「彫刻は力仕事ですよ。それに生きている充実感を味わえるんです」
東京に生まれたイクコ・バーンズさんは、山形で育った。地元の高校を卒業したあと、山形大学文理学部英文科で学ぶ。
卒業後は、北海道放送でアナウンサーとしてスタートを切った。
そんなころ、精神科医/精神分析医のパトリック・バーンズさんと恋愛。
バーンズさんは、日本で軍属の精神分析医として勤務していたが、休暇で山形に行くことになった。そのときに、スキーの上手なイクコさんが紹介されたのだ。
コーデュロイのジャケットを着たバーンズさんは、有能な医者というよりも、新進気鋭のジャーナリストに見えた。
「一目ぼれでした。私はジャーナリストが憧れのタイプでしたからね。彼の方も、私のことを気に入ってくれて・・・」
スキーが得意でないバーンズさんは、英語とスキーが得意なイクコさんの魅力の虜になった。
結婚してアメリカに渡ったイクコさんは、医者の妻として主婦業に専念した。ケニー、エイミー、メグの3人の母として忙しい毎日を送った。
「クリエイティブなことをしたいと思い続けてきましたからね。子育てを終わったころにふたたび勉強をはじめたのです」

ヴィジュアル・アートでいこうと決めたイクコさんは、ボストン美術館付属美術学校(ミュージアム・スクール)で学ぶ。ミュージアム・スクールは、ボストン美術館に所属する美術学校だ。
ボストン美術館は、パリのルーヴル、サンクトペテルブルグのエルミタージュ、ニューヨークのメトロポリタンと並ぶ、世界4大美術館の一つだ。とくに、フェノロサ、岡倉天心などが中心となって集められた東洋美術が充実している。
イクコさんは、1961年から63年まで、このミュージアム・スクールに通った。
「母親をやりながら、夜、美術学校に通いました」
1963年から65年までは、彫刻を専攻した。生涯の目標に出会った。
1985年、ボストン日本協会で個展を開いた。
その翌年の86年には、山形松坂屋デパート画廊で個展を開いた。
これが本格的なボストンと日本の文化の架け橋の第1歩だった。
さらに1987年、札幌市民会館で個展を、銀座・和光で二人展を開くなど、日本との関係を深めていく。
現在も、日本には1年に2回訪れる。 「目的は母に会うことがひとつ、もうひとつは友人に会うことと、個展を開くこと」
1996年には、大沼山形本店3階ギャラリーで、個展を開いた。
友人の広中和歌子さんは、その時こんな言葉を寄せている。
「彼女の作品は伸びやかで、明るく、ユーモラスで、楽しい。それでいて、どこか孤独と哀愁の影を見るのは、異郷で暮らす彼女への私の思い入れからであろうか」
たしかにイクコさんの作品は、明るくユーモラスであると同時に、ペーソスも漂っている。心癒してくれる作品ばかりだ。
「三輪車に乗った弟が、ジープに轢かれそうになった時、彼の小さな手を支えました」そのときの鮮烈な記憶が作品となった。
「8月15日の御馳走」
1945年のその日、差し出されたものは、ゆでじゃがだった。
また、「母と子等」 の作品もユーモラスな中に、どこか哀愁が漂っている。
「メモリー(思い出)は、甘く切なく、胸にいつまでも残ります」とイクコさんは言う。
「桃太郎の凱旋」
桃太郎は翼をつけたエンジェルと化して、宝物を荷車に山と積んで凱旋する。
故郷の山形を訪れたあと、イクコさんは必ず東京にも何日か滞在する。
「東京のダイナミズムが好きなんです」
ボストンと日本を見続けてきた彼女にとっては、東京はいつも新鮮に映るのだ。
年齢を感じさせないイクコさんの美しさは、エネルギッシュな行動力と無関係ではない。
















