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聖林百話

36.モンローを忘れない

  この8月5日はマリリン・モンローの37回目の命日である。
 アメリカでは、毎年、マリリン・ファンクラブ(グレッグ・シュライナー会長)が中心となって、偲ぶ会が催される。昨年は、私も参加して、彼女の大好きだった赤いバラを墓に捧げてきた。
 今年は、『追憶マリリン・モンロー』(拙書。集英社)を読み返しながら、マリリンを偲ぶことにした。マリリンは語る−。
「これで、もうあれをしゃぶらなくていいんだわ」
 初めて、映画の契約を終えたときの言葉。
 無名時代、マリリンは売春婦だったことがある。ソフィア・ローレン、ディートリッヒだってそう。ジョーン・クロフォードは、ポルノ映画に出ていた事実さえ必死になって隠した。
 だが、マリリンは違う。
「あどけない、普通の心をした女の子の脚を広げさせたのは、ハリウッドだ」(エリア・カザン監督)
 駆け出しのころ、マリリンはサンセット大通りのはずれで、売春婦をしていた。関係をもった相手に朝食、昼食、ディナーをご馳走になった。
 マリリンが、イタリアの映画界から賞を受けたとき、同席していた女優のアンナ・マニャーニは、眉をひそめて言った。 「プッターナ(売女)」
 マリリンは傷ついた。
「パーティに行って、誰も話しかけてくれないことがあった。男の人たちは奥さんや恋人にびくびくしていたし、女の人たちはすみっこで、ひとかたまりになって、私のことを危険人物と噂してたのよ」
 愛人のジョニー・ハイドが亡くなったとき、マリリンは悲しみのあまり奇妙なお別れの儀式をした。彼の家に忍びこみ、一晩、彼の柩の上で過ごした。翌日、家族が目を覚まさないうちにそっと家を出た。
「さようなら」
 マリリンは心のなかで、そっとつぶやいた。
 マリリンはユーモア感覚豊かな女性でもあった。
 映画『7年目の浮気』『お熱いのがお好き』のビリー・ワイルダー監督のことを、
「彼はディレクター(監督)じゃなくて、ディクテイター(独裁者)よ」
 有名なマリリンの「夜はシャネルの5番を」の台詞は、全容を知ってこそおもしろい。
「朝は何を着ますか?」
「スカートとセーターを」
「午後は?」
「別のスカートとセーターよ」
「夕方は?」
「絹で同じもの」
「では夜は?」
「シャネルの5番を5滴ほど」
 人気絶頂のマリリンの言葉にナイトウエアの業者が、倒産するのではと本気で心配したほどだ。
 36歳の若さで、マリリンは逝ってしまった。
「若いうちに死んでよかった。シワが刻まれた顔なんて自分でも我慢できなかっただろう。美しいままで死んでいった」(ヘアドレッサー、シドニー・ギラロフ氏)
 最後の映画『女房は生きていた』(未完成)を撮影中に書いた詩が死後に見つかった。
 助けて、お願い/死にたいとしか思えなくなると/本当に一線を越えてしまいそうになるの/
 1962年の5月、(マリリンを追いこんだ男のひとり)ジョン・F・ケネディの誕生パーティで、彼女はバースデイ・ソングをうたった。シャンパンに酔って、音程も不確かだったが、多くの人を魅了した。じつは、その翌年、ケネディはオードリー・ヘプバーンに「きみにうたってほしい」とバースディ・ソングを頼んだ。愛人のヘプバーンが応えてうたったが、感動を呼ばなかった。何かが欠けていたのだ。
 今年もマリリンの命日に集まる人びとの気持ちは同じ。
「サンキュー、マリリン」
 あなたによって優しい気持ちになれる。
 墓は、さまざまな色の花で埋めつくされるだろう。
 モンローの墓はWestwood Memorial Cemeteryにある。


サンケイスポーツ 99.8.2

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