22.ディズニーランドに一番近い場所

 ロサンゼルスのダウンタウンから車で約1時間、アナハイムのディズニーランド・パークに行くたびに「魔法の王国」を作ったウォルト・ディズニーについて知りたくなる。今回は、これまであまり伝えられなかったディズニーの素顔に迫ってみた。
 1901年シカゴ生まれ。6人兄弟姉妹の4番目。3番目のロイがのちにビジネス・パートナーとなる。少年時代はミズーリ州カンザスシティーで育った。ディズニーは役者かアーティストになろうかと思い悩んでいた。結局、自分で見込みがあると思ったアーティストの道を選んだ。10歳のとき、近所の理髪店のために絵を描いた。報酬は散髪だった。
 ディズニーがミッキー・マウスのアイデアを思い付いたのはニューヨークからカンザスシティーに向かう旅の途中のこと。名前は当初モーティーマー・マウスだったが、妻のリリアンの「ミッキ−のほうがいい」の一言で代わった。
 ミッキ−の最初の声は、ディズニー自身が吹き込んだ。
 ディズニーランドはもとはオレンジの果樹園。最初の計画では、選び抜かれたオレンジの樹をそのまま残すことになっていた。起工式は、1954年7月21日、果樹園のオレンジの一本にリボンがつけられていた。切り倒すものは赤いリボン、残しておくものはグリーンのリボンに色分けされていた。だが、ブルドーサーの運転手はすべて残らず伐採してしまった。彼は色を識別できなかったのである。
 1955年、ディズニーランドはロイとウォルト・ディズニー兄弟の夢を実現させて開園した。
ディズニーはディズニーランド・パークの中に、自分のアパートメントを持っていた。「タウンスクエアの消防署」の2階にあるプライベートなアパートメントは今日も彼が住んでいたときのままで、大好きなバラの花も生けてある。
 「ファンタジーランド」の「キングアーサー・カルーセル」の芸術的な木馬は、およそ100年から120年も昔のものだ。ニューヨーク・コニ−アイランドの倉庫に眠っていたのをディズニーが見つけ、慎重に持ち帰って修復したのだ。
 パークの建物の構造は遠近法を利用している。たとえば、「メインストリートUSA」の建物の1階は実物の90%の大きさで、2階は80%という具合だ。「眠れる森の美女の城」の石は、底辺部から上のほうに向かうにつれて縮小されているので、そびえたっているような錯覚をもたらすのだ。
 ディズニーは慎重1メートル78、平均体重は78キロ。好きな食べ物は、チリとV−8(野菜ジュース)とソーダクラッカーとナッツをポケットにいれ、口にほうりこみながら仕事をした。
 一番好きな食べ物はバナナ・クリームだったが、体重が84キロを越えたのでダイエットを始めた。
 車は銀色のサンダーバード・コンパーチブルを運転し、どんな暑い日でも幌屋根をたたまなかった。
彼は愛妻家だったが、生涯で初めて、妻以外の女性、スペイン系女優ドロレス・デル・リオと一緒にいるところを写真に撮られた。食事やお酒、ダンスを楽しんだ。2人の関係はハリウッド中に知れわたったが、なぜかゴシップ欄にはまったく登場しなかった。
 1966年12月5日はディズニーの65回目の誕生日。彼は目をあけて、天井をじっと見つめながら妻と2人の娘が歌うハッピー・バースディを聞いていた。それから10日後の12月15日、肺がんのため65歳で亡くなった。兄弟姉妹のうちもっとも短命だった。
 アメリカの子どもたちはディズニーの洗礼をうけて成長するが、スティーヴン。スピルバーグ監督もそのひとり。彼がディズニーのテレビを見たのは5,6歳のときで、「ミッキー・マウス・クラブ」だ。スピルバーグの「未知との遭遇」は「ピノキオ」「E・T・」は「ピーター・パン」の影響を受けている。
 今日、ディズニーの功績の中でもっとも意義深いものは彼の名前、すなわちウォルト・ディズニーで、商標になっている。