松下幸之助を支えた内助の功

松下電器の創業者・松下幸之助は“経営の神様”といわれ、没後十五年の現在もビジネス マンだけでなく多くの人々に影響を与え続けている。経営者としてだけではなく、人間・ 松下幸之助の生き方・考え方に共鳴するからである。幸之助が給料二〇円の大阪電灯会社検 査員の職を辞して独立したのは二十二歳のときだった。改良ソケットを世に出したいという 熱い想いからである。幸之助はそのときの気持ちを率直に語っている。「私が商売を始めたの は食うためだった」。家が貧しくて働かなければならない。身体も弱かったので、会社勤めは 向かない。「だからどうしても商売をして、休んでも妻が働いて、なんとか食えるようにした い、というまことにささやかな動機だった」(『志伝 松下幸之助』大(だい)久光著)。幸之 助は二〇歳のときに結婚した。姉夫婦の世話で井植(いうえ)むめのを妻に迎えた。むめのは十 八歳。若い夫婦は「食うため」に商売を始めた。さて、もう一人夫婦とともに働いた人物がい る。誰か? 妻の弟・井植(いうえ)歳男(としお)(のちの三洋電機社長)である。三人は夜遅 くまで働いた。借家を改造して住宅兼仕事場にした。わずかばかりの退職金はすべて事業資金 についやし、生活費はおろかその日食べるものにも事欠くありさまだった。妻むめのは衣類な どを質屋に運んでお金に換えた。やがて扇風機の碍盤(がいばん)千個を煉物(ねりもの)で作る という注文がきた。「一生懸命に働いているから」と問屋が碍盤の仕事をまわしてくれた。「 社会からの選択に応えられるように、日頃から自分をしっかりとつくりあげておくこと」。幸 之助は表に「松下電気器具製作所」という真新しい木札を掲げた。大正七年三月七日、いまから 八十六年前のことである。そして新案のアタッチメント・プラグを作り出し、二灯用差込プラグ (二股ソケット)の改良にも成功。三人の町工場は大松下への第一歩を踏み出した。

2004/12/11