製菓王・森永太一郎の刻苦勉励

 森永ミルクキャラメル、森永製菓・創業者の森永太一郎(1865-1957)の生涯は艱難辛苦の物語でもある。太一郎は一八六五年、佐賀県伊万里で生まれた。森永家は焼き物や魚類を商う卸問屋で、祖父の代までは有数の商家だったが、家運が傾き、父が若くして亡くなったため財産も人手に渡った。母は六歳の太一郎を連れて実家に戻った。実家も元は裕福な農家だったが、没落。そのうえ母は再婚した。太一郎は祖母に育てられた。その後、伯父の家などを転々としながら、学問とコンニャク売りなど商売を覚えた。十二歳で伊万里焼の店に奉公する。その後、横浜に出て陶器商に勤めたことから大きな人生の転換期が訪れた。二十一歳のとき結婚するが、店が倒産。九谷焼の貿易商の店員となり、焼き物を売り込むために単身アメリカに渡ったのだった。一八八八年、太一郎・二十四歳のときだ。欧米人に人気の高い九谷焼をもってサンフランシスコに上陸した。だが、予想に反して売れず、送金するために九谷焼を捨て値で売り払った。「アメリカで天職を見つける」という太一郎の夢は人種差別などで消えかかっていた。心身ともに疲れ切った太一郎は公園で酔いつぶれていた。うつろな目を開くと、老婦人がハンドバッグからキャンディを差し出している。太一郎は、そのキャンディの美しい包装紙をむいて頬ばった。「とろしりとした甘味がひろがり、思わず、『うまい!』と叫ぶように言ったあとで、こう心に決めた。(洋菓子の職人になろう)」(菓商 小説森永太一郎 若山三郎著・徳間文庫)。太一郎が初めて出会ったやさしいアメリカ人。彼女は敬虔なクリスチャンだった。浄土真宗の家に生まれた太一郎にとっては最初は戸惑いが多かったが、やがて洗礼を受けた。以来、太一郎は菓子作りに励んだ。日本人に喜ばれるケーキは何だろうか。日本から来る人たちをホテルに訪ねて、味見を頼んだ。その結果は何だったか? マシュマロ。十二年間におよぶ滞米中に太一郎は千七百円を貯めた。当時の大学出の給料が三十円の時代、その五年分に当たる。さらに、奉公先のブルーニング夫妻から千円もの退職金を手渡された。マシュマロの原材料を大量に買い入れて日本に戻った。一八九九年八月、東京赤坂に森永西洋菓子製造所を創業。わずか二坪の小さな店だったが、日本での菓子作りがスタートした。だが、マシュマロは「シャボン臭い」と評判が芳しくない。味には絶対的な自信を持つ太一郎は独自性を出すためにトレードマークを考案した。マシュマロはアメリカではエンゼル・フード(天使の糧)と呼ばれている。エンゼルをマークに取り入れた。アメリカ公使夫人の助言を得て森永太一郎のイニシャルのTとMを組み合わせた形のハンドルを握ったエンゼルが天から舞い降りてくる。栄養に富み、おいしい菓子を提供したいという願いをこめてトレードマークを「天童印」と名づけた。太一郎の作ったエンゼルのデザインは初期には「天から舞い降りてくる」ようなデザインだったが、最新版では「天に舞い上がっている」ようにも見える。晩年、体調を崩した太一郎は「食べたいものがおいしくない。そろそろお迎えがくるでしょう」そんなある日「家に帰れば大福が食べられるぞ」と家人に饅頭をねだり、昼食には赤坂・大黒屋の蒲焼を取り寄せたが、半分もたいらげないうちに「顎がくたびれたから、残りは晩に食べる」と言い残し、息を引き取った。初心を忘れず、クリスチャンの良心に従って栄養に富む菓子を作り続けた。青山学院で行われた告別式には八千人余が参列した。波乱に富んだ七十三年の生涯。森永の好んで書いた言葉は何事にも変わらぬ信念を貫いた「終始一貫」である。翼を広げたエンゼルマークのミルクキャラメルは子どもだけでなく、今日も多くの日本人に愛され続けている。

2005/2/28 フジサンケイ ビジネス・アイ